昨日に引き続き、塩竈市杉村惇美術館を会場に2日目の合宿ワークショップが行われました。
本日は民話採訪者・小野和子氏と、漫画家・いがらしみきお氏、二人の講師によるレクチャーをメインに、語ること/聞くこと、言葉にならないもの/言葉にすることといった、表現の根源に関わる話を軸に、さまざまな対話が展開されていきました。
午前10時から始まった小野氏のレクチャーでは、民話を聞き、記録してきた中で出会った、決定的な何人かの語り手たちと、彼らが実際に語ってくれた民話を紹介しながら、「話す人が亡くなると、話もあの世に行ってしまう」けれど、民話は「残せるものを持たない人たちにとってのよすが」であり、「なにげなく話している民話は人々の思いの結集」といった言葉が聞かれました。
次に、酒井耕・濱口竜介監督による東北記録映画三部作の第三部『うたうひと』の中から、佐藤玲子、佐々木健、伊藤正子、3人の語り手との対話部分を上映。その後のワークショップ参加者との質疑応答では、「民話を文字にするときに気をつけていること」「語り手との関係をつくるときに気をつけていること」といった質問から、本来能動的である「聞く」という行為へと迫っていきます。
質疑応答の終盤、個人の人生の中で起こる辛いことや戦争、東日本大震災のようなカタストロフィについて、「忘れるのではなく、物語にすることで『越える』」という話が出ました。民話という営みに根ざしている、事実を越えるもうひとつの世界をつくるということ。その本質に触れることができた、貴重なひとときとなりました。
お昼休憩を挟んで午後から夕方にかけて行われたいがらし氏のレクチャーは、表現者としての出自が「なぜ自分はここ(=東北、宮城県加美町中新田)に生まれ、ここで育つのか」という疑問に誰も答えてくれなかったルサンチマンにあるとの話からスタートしました。
これまでの作品をスクリーンに投射しながら解説し、また自身の半生を語る中で、自分にとっての東北というものを「エディプス・コンプレックス」「東北には身も蓋もないリアリズムがある。リアルにしか生きられない」と表現。代表作『ぼのぼの』はリアリズムでしかない「東北」からリアルを取り除いた牧歌的なものとして描いた、という話もありました。
そして、ファンタジーであるけれどもリアルなものをやろうと思い、描かれた東北三部作(『かむろば村へ』『I【アイ】』『誰でもないところからの眺め』)について触れながら、「アートというものは、言葉から遠く離れたところで成立するもの。言葉によってこの世界はつくられている」「アートをすることによって神様が見えるようになってくる」と発言。それを受けての質疑応答では、「神様を別の言葉で言うと『法則』。私の神様は信仰の対象ではなく、宗教でいう神様ではない。そこにあるだけのもの」との言葉も聞かれました。
いがらし氏にとって、アートは「怖いもの」。「エンターテイメントの対局であって、言葉から離れている。言葉との距離感を考えている時点でアートではない」。ユーモアのある語りによって、終始笑いが絶えない中、描くこと=表現することの核心が垣間見えた瞬間でした。
レクチャー終了後には、4日目に陸前高田でレクチャーを行う小森はるか+瀬尾夏美による映像作品『波のした、草のうえ』が上映されました。明日は宮城県美里町、南三陸町へと、巡礼が続きます。